芳徳寺は、柳生宗矩が父・柳生宗厳(石舟斎)を弔うために創建しました。宗矩と親交が深く、高名であった沢庵和尚に初代住職を依頼しましたが、ひとつの場にとどまることを好まなかった和尚に辞退され、宗矩の息子である列堂義仙が務めることになりました。義仙は、宗矩が村を通りかかった際に見染め、側室にしたと語り継がれるおふじの子です。

さて、柳生一族が磨き上げていった柳生新陰流剣術は、相手を殺さず生かすことを旨とした哲学的なものでした。だからこそ、戦をする必要がない江戸時代に広まり、柳生十兵衛などの剣豪を生み、伝えられていったのだと考えられます。この寺が大正時代に復興された際、柳生家が運営していた正木坂道場も建て直されました。その道場では剣術の稽古だけでなく、座禅をするスペースが設けられています。沢庵和尚の影響で、禅の思想を色濃く盛り込んでいるとされる新陰流の道場らしい特色といえます。

芳徳寺は寛永15年(1638年)、柳生宗矩が名高い剣豪であった亡き父・柳生宗厳を弔うために宗矩が創建し、江戸時代後期まで柳生家の菩提寺でした。宗矩の息子・列堂義仙(1636–1702年)が芳徳寺の初代住職を務めました。柳生家は、上泉秀綱が創始した「柳生新陰流」と呼ばれる剣術の家として知られ、臨済宗の高僧・沢庵(1573–1645年)が説いた禅の思想を取り入れたところに特徴があります。当初、宗矩は、沢庵を初代住職にとも構想していたが、沢庵自身が縛られることを嫌い、叶わなかったとも言われます。

当初の芳徳寺の堂宇は、宝永8年/正徳元年(1711年)の大火で焼失しましたが、3年後には再建。宗矩公の像、宗矩と親交が深く、新陰流剣術にも影響を与えた禅僧・沢庵和尚の像は難を逃れ、いまも本堂に安置されています。

明治時代(1868–1912)に入ると荒廃しましたが、大正11年(1921年)、柳生家の子孫による寄付で本堂が修復されたことを機に、寺運も回復し、今日に至ります。

みどころ

  • 正木坂剣禅道場

    正木坂道場は、かつて柳生家が運営していた同名の道場を模し、昭和40年(1965年)に興福寺の一乗院の木材を使用し、建立された木造道場です。道場の端に設けられた「単(たん)」と呼ばれる畳敷きの場所で、座禅をすることができます。当初の正木坂道場では、名高い剣豪・柳生十兵衛(1607–1650年)が、柳生新陰流の剣術を1万3千人以上の門弟に教えたといいます。「柳生新陰流」とは、上泉秀綱の創始で、十兵衛の祖父である柳生宗厳(1527?–1606年)へと伝えられたものをもとに、宗厳の子・宗矩によって禅の修行と武術を融合させたことで独自の発展をしていきます。「柳生新陰流」と呼ばれるようになったのは、宗矩以降のことです。

    正木坂剣禅道場

    正木坂道場は、かつて柳生家が運営していた同名の道場を模し、昭和40年(1965年)に興福寺の一乗院の木材を使用し、建立された木造道場です。道場の端に設けられた「単(たん)」と呼ばれる畳敷きの場所で、座禅をすることができます。当初の正木坂道場では、名高い剣豪・柳生十兵衛(1607–1650年)が、柳生新陰流の剣術を1万3千人以上の門弟に教えたといいます。「柳生新陰流」とは、上泉秀綱の創始で、十兵衛の祖父である柳生宗厳(1527?–1606年)へと伝えられたものをもとに、宗厳の子・宗矩によって禅の修行と武術を融合させたことで独自の発展をしていきます。「柳生新陰流」と呼ばれるようになったのは、宗矩以降のことです。

  • 柳生一族の墓

    柳生一族の墓は、芳徳寺の裏手にある山中に柳生宗矩(1571–1646年)の墓をはじめ、十二代にわたる柳生一族が眠っています。芳徳寺は、宗矩が父・柳生宗厳(1527?–1606年)を弔うために建立した寺で、宗厳は宗矩に新陰流を教え、宗矩はその教えをさらに発展させ、自らの子どもたちにも伝えました。その一人で、後に名剣士として知られる柳生三厳(1607–1650年、通称・十兵衛)も含まれます。

    墓所には、16世紀から19世紀にかけて造られた86基の墓石や供養塔があります。中には、亀形、酒樽形の珍しい墓もあります。

    柳生一族の墓

    柳生一族の墓は、芳徳寺の裏手にある山中に柳生宗矩(1571–1646年)の墓をはじめ、十二代にわたる柳生一族が眠っています。芳徳寺は、宗矩が父・柳生宗厳(1527?–1606年)を弔うために建立した寺で、宗厳は宗矩に新陰流を教え、宗矩はその教えをさらに発展させ、自らの子どもたちにも伝えました。その一人で、後に名剣士として知られる柳生三厳(1607–1650年、通称・十兵衛)も含まれます。

    墓所には、16世紀から19世紀にかけて造られた86基の墓石や供養塔があります。中には、亀形、酒樽形の珍しい墓もあります。

  • 柳生宗矩像

    柳生家で最も優れた剣士の一人、宗矩(1571–1646年)が芳徳寺を創建しました。宗矩は関ヶ原の戦いで徳川家康(1543–1616年)とともに勇敢に戦い、その後、徳川幕府が開かれますが、宗矩は家康の子・徳川秀忠(1578–1632年)に剣術を教えたことでも知られます。この宗矩像は、彼の七周忌を前に、息子の宗冬が京都の仏師に命じ、造らせたものです。

    柳生宗矩像

    柳生家で最も優れた剣士の一人、宗矩(1571–1646年)が芳徳寺を創建しました。宗矩は関ヶ原の戦いで徳川家康(1543–1616年)とともに勇敢に戦い、その後、徳川幕府が開かれますが、宗矩は家康の子・徳川秀忠(1578–1632年)に剣術を教えたことでも知られます。この宗矩像は、彼の七周忌を前に、息子の宗冬が京都の仏師に命じ、造らせたものです。

  • 釈迦如来像

    釈迦如来像は、寺院創建当初の寛永15年(1638年)以降の本尊です。釈迦如来像の脇には、十大弟子である迦葉と阿難の像が安置されています。

    釈迦如来像は、寺院創建当初の寛永15年(1638年)以降の本尊です。釈迦如来像の脇には、十大弟子である迦葉と阿難の像が安置されています。

  • 沢庵像

    沢庵(1573–1645年)は臨済宗の禅僧で、柳生宗矩と深い親交がありました。宗矩が創建した芳徳寺の住職就任を乞われましたが、断り、放浪の旅を続けました。禅の影響を受けた柳生家の新陰流剣術は、沢庵の影響を大きく受けています。この像は、芳徳寺の初代住職である柳生列堂義仙によって造られました。

    沢庵像

    沢庵(1573–1645年)は臨済宗の禅僧で、柳生宗矩と深い親交がありました。宗矩が創建した芳徳寺の住職就任を乞われましたが、断り、放浪の旅を続けました。禅の影響を受けた柳生家の新陰流剣術は、沢庵の影響を大きく受けています。この像は、芳徳寺の初代住職である柳生列堂義仙によって造られました。

  • 列堂像

    列堂義仙(1636–1702年)は柳生宗矩の四男です。11歳のとき、京都の大徳寺に仏教を学ぶために送られ、沢庵が住職の座を辞退した後に芳徳寺の初代住職となりました。義仙の墓は柳生家墓所ではなく、別の僧侶のための墓地にあります。

    列堂像

    列堂義仙(1636–1702年)は柳生宗矩の四男です。11歳のとき、京都の大徳寺に仏教を学ぶために送られ、沢庵が住職の座を辞退した後に芳徳寺の初代住職となりました。義仙の墓は柳生家墓所ではなく、別の僧侶のための墓地にあります。

  • 新陰流兵法目録・月之抄

    芳徳寺では、柳生独自の剣術流派である新陰流の基礎を記した書物を展示しています。新陰流は禅の影響を受けており、相手を「倒す」ことよりも「生かす」ことを重視し、多くの技法は相手の手を狙うものです。その軸には「無心」という禅の哲学があり、意識が行動に干渉しない状態を作り出すことで、自然な動きに入ることができるとされています。

    新陰流兵法目録・月之抄
    新陰流兵法目録・月之抄
    新陰流兵法目録・月之抄
    新陰流兵法目録・月之抄

    芳徳寺では、柳生独自の剣術流派である新陰流の基礎を記した書物を展示しています。新陰流は禅の影響を受けており、相手を「倒す」ことよりも「生かす」ことを重視し、多くの技法は相手の手を狙うものです。その軸には「無心」という禅の哲学があり、意識が行動に干渉しない状態を作り出すことで、自然な動きに入ることができるとされています。

コラム

おふじの話

柳生宗矩(1571–1646年)が阪原の村を馬で通りかかったとき、井戸で洗濯をしている美しい女性に気づきました──これはこの地に伝わる逸話です。宗矩は馬を止め、おふじという女性に「洗濯をする間に、水面にいくつ波紋ができたか」と尋ねました。おふじは機転を利かせ、「二十一(にじゅういち)」と答えました。これは「(なみ)は、7(なな)かける3(み)は21」という言葉遊びを含んだ返答で、また別の言い伝えでは、おふじは宗矩に「では、お殿様の馬はここまでに何歩、歩みましたか」と逆に問い返しました。宗矩は返す言葉がなく、おふじの機知に完全に打ち負かされたといいます。宗矩はその才気煥発ぶりに心を奪われました。この運命的な出会いが、柳生家に新たな章を開くことになります。二人の間に生まれた子・列堂は、柳生家の菩提寺である芳徳寺の初代住職となりました。この地に伝わる逸話は、柳生家が重んじた聡明さと鋭い知性をよく物語っており、のちに日本史に大きな足跡を残す「剣の道」にも通じています。

柳生宗矩とおふじ

柳生一族と新陰流剣術の遺産

~宗矩と十兵衛

新陰流剣術は柳生宗矩の父、柳生宗厳(石舟斎)(1527?–1606年)が、師である上泉信綱(1508?–77年?)の教えと技法を磨き上げ、一つの剣術体系として完成させた流派です。宗厳と宗矩父子はともに優れた剣士で、徳川幕府の将軍たちにも新陰流を指南しました。寛永9年(1632年)、宗矩は『兵法家伝書』を著し、新陰流の思想と技法を体系づけました。宗矩は親友である奇僧・沢庵(1573–1645年)の思想に強く影響を受け、沢庵が説いた「無心」の境地──心がいかなる執着からも解放され、状況に応じて自在に働く状態──を剣術の根本理念として取り入れました。

新陰流は殺傷よりも哲理を重んじ、多くの技は相手の手を狙い、殺すのではなく武器を落とさせて無力化することを目的とします。この思想は、武士の多くが知的・精神的修養へと関心を向けた江戸時代(1603–1867年)にそぐうものでした。 柳生の剣士の中でも最も名高いのが、宗矩の長男・柳生三厳(1607–50年)、通称「十兵衛」です。彼の著した『月之抄』には、「新陰流は『斬らず、取らず、勝たず、負けず』を旨とする」と記されています。

基本情報

芳徳寺

  • 拝観時間

    9:00~16:30

  • 拝観料

    大人200円

  • 詳しくは0742-94-0204(芳徳禅寺)までご確認ください。