
奈良時代には平城京の鬼門を守るとともに多くの学問僧が行き交い、大いに栄えた般若寺。しかし、平安時代末期の源平の戦いにおいては、京から奈良へ入る要衝に位置していたことから、まず最初に攻めの対象となり、甚大な被害を被りました。鎌倉時代、社会的弱者の救済活動に尽力した叡尊、忍性らによって再興を果たしましたが、その後も幾度と荒廃の時期を経験しました。 戦後になると、境内に咲くコスモスが評判を呼び、「花の寺」として多くの参拝者で賑わうようになりました。近年は、秋に咲くコスモスに加え、春のヤマブキ、初夏のアジサイ、冬のスイセンなど、四季折々の花々が境内を彩ります。風に揺れる花を愛でつつ、古刹が幾多の困難を乗り越えてきた復興の歴史に思いを寄せていただきたいです。
戦火や火災による焼失を乗り越え、千年以上の法灯を今につないできた般若寺は、高句麗の僧・慧灌が飛鳥時代に創建したと伝わります。奈良時代には、都の北東に位置する鬼門(不吉な方角)を鎮護する寺院として重要な役割を担いました。平安時代には学問寺として栄えましたが、治承4年(1180年)平家による南都焼討によって壊滅的な被害を受けます。
その後、般若寺は、鎌倉時代の高僧・叡尊とその高弟 忍性によって復興が成し遂げられました。現在の般若寺は、真言律宗の寺院で、本尊は八字文殊菩薩騎獅像。文殊菩薩は智慧を象徴する仏であり、完成された智慧(般若)をそなえて説法を行なった仏であり、大乗経典でも諸菩薩を主導し、空に立脚する深い智慧が文殊菩薩の特性と説かれています。鎌倉時代、叡尊や忍性によって文殊信仰が広められました。文殊信仰とは『仏説文殊師利般涅槃経(ぶっせつ もんじゅしりはつねはんきょう)』の一説に、文殊菩薩が貧者や病人などの姿で現れ、救済することで信仰の深さを試すと説かれ、叡尊や忍性らは、社会から疎外されていた弱い立場の人々を文殊菩薩の化身と考え、救済する「文殊供養」が盛んに行われました。

寺の近くには、ハンセン病患者のための療養所「北山十八間戸」も設けられ、般若寺は、一時、救済活動の拠点となりました。当時、患者らは「不浄」とされ、寺社関係者でさえも、叡尊、忍性らの寛容さに対し、大きな驚きと戸惑いをもたらしたと伝えられます。また、在家信者や一般の民衆に向けた公開説法も定期的に行われました。記録によれば、時には二千人もの人々が集まり、説法後には米や布、莚(むしろ)などの生活用品が施されたといいます。
その後、明治時代の廃仏毀釈によって再び困難な時代を迎えましたが、現在の般若寺は、四季折々の花々が境内を彩る「花の寺」としても知られ、開花時期には多くの参拝者で賑わいます。

みどころ
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本堂
般若寺本堂は、寛文7年(1667年)、妙寂院(みょうじゃくいん)高任(こうにん)・妙光院(みょうこういん)高栄(こうえい)の勧進により再建されました。大棟の鬼瓦には寛文10年、11年の銘があり、天井に宝永元年(1704年)の年号があることから、寛文年間に再建が始まり、その後、数十年に及ぶ長い時間をかけ、完成したと考えられています。上棟の寛文7年というのは、前身の文殊金堂が焼失してからちょうど百年目に当たります。前身の鎌倉時代に復興された文殊金堂に比べ、かなり規模が縮小されましたが、古様の形式をよく残しています。
本堂内陣には、須弥壇が設けられ、壇上に本尊の文殊菩薩を収めた春日厨子が安置されています。堂内は格天井ですが、須弥壇の上だけは折上げ格天井となっています。
本尊の文殊菩薩像は元亨4年(1324年)の作で、後醍醐天皇の御願成就のため、高僧・文観房弘真(もんかんぼうこうしん)が発願したもので、もとは経蔵の秘仏本尊でした。前身の文殊金堂には、文永4年(1267年)に造られた周丈六文殊菩薩騎獅像が本尊として安置されていましたが後に焼失してしまいます。この像の獅子が踏んでいた蓮華石(花崗岩)の一部が本堂の縁に置かれ、その大きさを想像することができます。
般若寺本堂は、寛文7年(1667年)、妙寂院(みょうじゃくいん)高任(こうにん)・妙光院(みょうこういん)高栄(こうえい)の勧進により再建されました。大棟の鬼瓦には寛文10年、11年の銘があり、天井に宝永元年(1704年)の年号があることから、寛文年間に再建が始まり、その後、数十年に及ぶ長い時間をかけ、完成したと考えられています。上棟の寛文7年というのは、前身の文殊金堂が焼失してからちょうど百年目に当たります。前身の鎌倉時代に復興された文殊金堂に比べ、かなり規模が縮小されましたが、古様の形式をよく残しています。
本堂内陣には、須弥壇が設けられ、壇上に本尊の文殊菩薩を収めた春日厨子が安置されています。堂内は格天井ですが、須弥壇の上だけは折上げ格天井となっています。
本尊の文殊菩薩像は元亨4年(1324年)の作で、後醍醐天皇の御願成就のため、高僧・文観房弘真(もんかんぼうこうしん)が発願したもので、もとは経蔵の秘仏本尊でした。前身の文殊金堂には、文永4年(1267年)に造られた周丈六文殊菩薩騎獅像が本尊として安置されていましたが後に焼失してしまいます。この像の獅子が踏んでいた蓮華石(花崗岩)の一部が本堂の縁に置かれ、その大きさを想像することができます。 -
楼門国宝
楼門遺構としては日本最古の作例です。鎌倉時代(1185‒1333年)に叡尊による伽藍再興の際に回廊西門として建立されました。 再興当初、正門は南大門、中大門とありましたが、永禄10年(1567年)の戦火で焼失し唯一戦火を免れたのが楼門です。かつて京街道は寺中を貫いていましたが、その街道に面する楼門のみが保存されました。境内西側に建つ楼門は、寺の正門ではなく境内の聖域と世間を回廊で区切るための門として建立されました。 般若寺の楼門は大仏様建築の代表的な作例です。
大仏様とは、鎌倉時代の東大寺大仏殿再建にも用いられた建築様式です。大仏様建築はその後、廃れていきましたが、その装飾的要素は他の建築様式に取り入れられていきます。例えば、斗栱や垂木、貫などの構造材をあえて露出させているのが特徴のひとつです。楼門を内側から見上げると、屋根を支える梁が見えます。また、斗栱の腕の先端の装飾彫刻も、この後の日本の寺院建築では定番となっていきます。般若寺の楼門は、全国に数ある楼門建築の中でも屋根のそりの美しさは高く評価されています。
楼門遺構としては日本最古の作例です。鎌倉時代(1185‒1333年)に叡尊による伽藍再興の際に回廊西門として建立されました。 再興当初、正門は南大門、中大門とありましたが、永禄10年(1567年)の戦火で焼失し唯一戦火を免れたのが楼門です。かつて京街道は寺中を貫いていましたが、その街道に面する楼門のみが保存されました。境内西側に建つ楼門は、寺の正門ではなく境内の聖域と世間を回廊で区切るための門として建立されました。 般若寺の楼門は大仏様建築の代表的な作例です。
大仏様とは、鎌倉時代の東大寺大仏殿再建にも用いられた建築様式です。大仏様建築はその後、廃れていきましたが、その装飾的要素は他の建築様式に取り入れられていきます。例えば、斗栱や垂木、貫などの構造材をあえて露出させているのが特徴のひとつです。楼門を内側から見上げると、屋根を支える梁が見えます。また、斗栱の腕の先端の装飾彫刻も、この後の日本の寺院建築では定番となっていきます。般若寺の楼門は、全国に数ある楼門建築の中でも屋根のそりの美しさは高く評価されています。 -
経蔵重要文化財
元版一切経を収納するために建立された経蔵で、鎌倉時代(1185-1333年)にさかのぼります。内部は三方に経棚を備え、天井は垂木をあらわにした化粧屋根裏となっており、当時の建築様式を今に伝えています。堂内には、椿井仏師・尊弘(そんこう)作の十一面観音像(室町時代)を経蔵本尊としてお祀りしています。この像は、かつて存在した旧超昇寺(現在は廃寺)の脇仏でもありました。
現在は、毎月十八日の御縁日のみ開扉し、ご参拝いただいております。また、軍記物語『太平記』に名高い大塔宮護良親王が、追手を逃れて唐櫃に身を隠し危難を免れたと伝わるのも、この経蔵です。なお、その唐櫃は現在、本堂内に安置されています。
元版一切経を収納するために建立された経蔵で、鎌倉時代(1185-1333年)にさかのぼります。内部は三方に経棚を備え、天井は垂木をあらわにした化粧屋根裏となっており、当時の建築様式を今に伝えています。堂内には、椿井仏師・尊弘(そんこう)作の十一面観音像(室町時代)を経蔵本尊としてお祀りしています。この像は、かつて存在した旧超昇寺(現在は廃寺)の脇仏でもありました。
現在は、毎月十八日の御縁日のみ開扉し、ご参拝いただいております。また、軍記物語『太平記』に名高い大塔宮護良親王が、追手を逃れて唐櫃に身を隠し危難を免れたと伝わるのも、この経蔵です。なお、その唐櫃は現在、本堂内に安置されています。 -
十三重石宝塔重要文化財
鎌倉時代(1185‒1333年)良慧上人が勧進し、宋の石工・伊行末(いぎょうまつ/いのゆきすえ)伊行吉(いぎょうきつ/いのゆきよし)らが手がけ、建長5年(1253年)年頃に完成しました。石塔の最下部には、顕教の四仏として東に薬師如来、 西に阿弥陀如来、南に釈迦如来、北に弥勒如来が刻まれています。なぜ十三重であるかについては諸説あります。密教において天界の宇宙を構成する胎蔵界の十三院を象徴するとの考えもありますが、その明確な意図は定かではありません。
昭和39年(1964年)に石塔の解体修理をした際、石塔の内部から多くの仏舎利、仏像、経典などが発見されました。とりわけ第五層目内部からは、白鳳時代(645‒710年)の金銅製阿弥陀如来像が見つかっています。さらに、その阿弥陀如来像の胎内には、小さな大日如来像・十一面観音像・地蔵菩薩像の三尊が納められていました。
鎌倉時代(1185‒1333年)良慧上人が勧進し、宋の石工・伊行末(いぎょうまつ/いのゆきすえ)伊行吉(いぎょうきつ/いのゆきよし)らが手がけ、建長5年(1253年)年頃に完成しました。石塔の最下部には、顕教の四仏として東に薬師如来、 西に阿弥陀如来、南に釈迦如来、北に弥勒如来が刻まれています。なぜ十三重であるかについては諸説あります。密教において天界の宇宙を構成する胎蔵界の十三院を象徴するとの考えもありますが、その明確な意図は定かではありません。
昭和39年(1964年)に石塔の解体修理をした際、石塔の内部から多くの仏舎利、仏像、経典などが発見されました。とりわけ第五層目内部からは、白鳳時代(645‒710年)の金銅製阿弥陀如来像が見つかっています。さらに、その阿弥陀如来像の胎内には、小さな大日如来像・十一面観音像・地蔵菩薩像の三尊が納められていました。 -
笠塔婆重要文化財
これらの石塔は、笠塔婆様式で造られた現存最古の作例です。屋根のような笠の上に丸い宝珠を載せる形式が特徴です。 建立は、宋の石工・伊行末(いぎょうまつ/いのゆきすえ)の息子である伊行吉(いぎょうきつ/いのゆきよし)によるもので、弘長元年(1261年)に父・伊行末の壱周忌にあたり、父母の供養のために建立されました。(左:亡き父の供養の為 右:現存する母の為)
石塔には、サンスクリットの「涅槃経」「法華経」(ねはんきょう ほっけきょう)の一節が刻まれています。 また、塔身の下部には、父・行末の略歴が刻まれ、奈良の東大寺再建や般若寺十三重石塔の建立に携わったことなど、その業績が記されています。
この二基の笠塔婆は明治時代(1868‒1912年)の廃仏毀釈の影響を受け、一時破壊されました。もとは般若野(総墓所)に建てられていましたが、その後、境内の現在の場所へ移され、修理が施されました。なお、その際の破損の痕跡は、今もなお塔身に残されています。
これらの石塔は、笠塔婆様式で造られた現存最古の作例です。屋根のような笠の上に丸い宝珠を載せる形式が特徴です。 建立は、宋の石工・伊行末(いぎょうまつ/いのゆきすえ)の息子である伊行吉(いぎょうきつ/いのゆきよし)によるもので、弘長元年(1261年)に父・伊行末の壱周忌にあたり、父母の供養のために建立されました。(左:亡き父の供養の為 右:現存する母の為)
石塔には、サンスクリットの「涅槃経」「法華経」(ねはんきょう ほっけきょう)の一節が刻まれています。 また、塔身の下部には、父・行末の略歴が刻まれ、奈良の東大寺再建や般若寺十三重石塔の建立に携わったことなど、その業績が記されています。
この二基の笠塔婆は明治時代(1868‒1912年)の廃仏毀釈の影響を受け、一時破壊されました。もとは般若野(総墓所)に建てられていましたが、その後、境内の現在の場所へ移され、修理が施されました。なお、その際の破損の痕跡は、今もなお塔身に残されています。 -
平和の塔
この平和の塔には、1945年8月6日、広島への原子爆弾投下直後に発生した火の一つから分火された「平和の火」が守られています。 この火は、山本達雄氏(1916‒2004年)によって広島で収集され、故郷の福岡県星野村へ持ち帰られたものです。山本氏は、原爆で亡くなった叔父を偲び、自宅の仏壇で火を絶やさず灯し続けました。1968年には、この火は星野村(現・八女市)の平和記念碑に移され、今日まで燃え続けています。
平和の火は世界各地にも届けられました。1988年には、日本の代表団が国連の第3回特別軍縮会議の際にニューヨーク市へ持参しました。また2019年には、被爆者が火の一部をバチカン市国へ持参し、フランシスコ教皇が象徴的な意味を込めて火を吹き消し、悲劇の終焉と平和への祈りを世界に呼びかけました。この火は日本各地にも分けられましたが、火を絶やさず守り続けさせることは大変難しく、現在、奈良県内で平和の火を守っているのは般若寺のみです。毎年、広島原爆投下の日に合わせて慰霊法要が営まれています。
塔周囲にある装飾の銅像は、人々が手を取り合う姿を表しています。また、地元の園児たちが折った千羽鶴が捧げられ、平和への願いが込められています。戦争や核兵器のない未来を願う般若寺の姿勢を象徴しています。
この平和の塔には、1945年8月6日、広島への原子爆弾投下直後に発生した火の一つから分火された「平和の火」が守られています。 この火は、山本達雄氏(1916‒2004年)によって広島で収集され、故郷の福岡県星野村へ持ち帰られたものです。山本氏は、原爆で亡くなった叔父を偲び、自宅の仏壇で火を絶やさず灯し続けました。1968年には、この火は星野村(現・八女市)の平和記念碑に移され、今日まで燃え続けています。
平和の火は世界各地にも届けられました。1988年には、日本の代表団が国連の第3回特別軍縮会議の際にニューヨーク市へ持参しました。また2019年には、被爆者が火の一部をバチカン市国へ持参し、フランシスコ教皇が象徴的な意味を込めて火を吹き消し、悲劇の終焉と平和への祈りを世界に呼びかけました。この火は日本各地にも分けられましたが、火を絶やさず守り続けさせることは大変難しく、現在、奈良県内で平和の火を守っているのは般若寺のみです。毎年、広島原爆投下の日に合わせて慰霊法要が営まれています。
塔周囲にある装飾の銅像は、人々が手を取り合う姿を表しています。また、地元の園児たちが折った千羽鶴が捧げられ、平和への願いが込められています。戦争や核兵器のない未来を願う般若寺の姿勢を象徴しています。 -
鎮守社
般若寺の鎮守社は、桃山時代(1573‒1615年)に建立されたものです。天照大神、春日大明神、八幡神の三柱が祀られています。 天照大神は太陽の女神、春日大明神は奈良・春日大社の祭神、八幡神は弓矢と武の神です。
明治時代(1868‒1912年)の神仏分離令により、般若寺の境内は大幅に縮小されましたが、この鎮守社は寺との切り離しを免れ、現在も境内にその姿をとどめています。なお、現在は御神体は安置されていません。
般若寺の鎮守社は、桃山時代(1573‒1615年)に建立されたものです。天照大神、春日大明神、八幡神の三柱が祀られています。 天照大神は太陽の女神、春日大明神は奈良・春日大社の祭神、八幡神は弓矢と武の神です。
明治時代(1868‒1912年)の神仏分離令により、般若寺の境内は大幅に縮小されましたが、この鎮守社は寺との切り離しを免れ、現在も境内にその姿をとどめています。なお、現在は御神体は安置されていません。 -
鐘楼
この鐘楼は、元禄7年(1694年)に建立されました。 現在掛けられている梵鐘は、江戸時代初期(1603‒1867年)に鋳造されたもので、法要の際に撞かれています。この梵鐘は、もともと西大寺(奈良)にあったもので、かつて般若寺にあった梵鐘は、延徳3年(1491年)に興福寺へ寄進され、その代わりとして現在の梵鐘が設置されました。
鐘楼を建立する際、地下から願いをかなえるとされる如意宝珠を収めた石室が発見されました。この宝珠は、般若寺の再興に尽力した忍性(にんしょう、1217‒1303年)によって埋められたと伝えられています。宝珠そのものは後に失われたましが、それを納めていた箱は現存しています。
第二次世界大戦中、武器製造のため全国で金属類の供出が行われた際、この梵鐘も没収の危機に見舞われました。しかし、般若寺はその歴史的・芸術的価値を訴える嘆願書を提出し、その保存が認められました。
この鐘楼は、元禄7年(1694年)に建立されました。 現在掛けられている梵鐘は、江戸時代初期(1603‒1867年)に鋳造されたもので、法要の際に撞かれています。この梵鐘は、もともと西大寺(奈良)にあったもので、かつて般若寺にあった梵鐘は、延徳3年(1491年)に興福寺へ寄進され、その代わりとして現在の梵鐘が設置されました。
鐘楼を建立する際、地下から願いをかなえるとされる如意宝珠を収めた石室が発見されました。この宝珠は、般若寺の再興に尽力した忍性(にんしょう、1217‒1303年)によって埋められたと伝えられています。宝珠そのものは後に失われたましが、それを納めていた箱は現存しています。
第二次世界大戦中、武器製造のため全国で金属類の供出が行われた際、この梵鐘も没収の危機に見舞われました。しかし、般若寺はその歴史的・芸術的価値を訴える嘆願書を提出し、その保存が認められました。 -
忍性菩薩御廟
般若寺の復興に尽力し、社会的弱者への救済に生涯を捧げた忍性(1217–1303年)の遺骨は、額安寺(奈良)、竹林寺(奈良)、極楽寺(神奈川)に分骨し納められました。その一部を般若寺にも分与され、この塔に納められています。
忍性は文殊菩薩を深く信仰していました。「文殊経」によれば、文殊菩薩は貧しい人や病に苦しむ人の姿となって現れ、人々を救うことでその信仰の深さを試すと説かれています。忍性は16歳のとき、亡き母の遺志を継いで出家しました。その後、西大寺再建のための勧進活動を行う高僧・叡尊(1201–1290年)と出会い、その弟子となります。叡尊と忍性は、全国の寺院で文殊菩薩の教えを説き、各地に文殊像を安置しました。そして、仏の慈悲はすべての命に平等に注がれるという信念のもと、社会から疎外されていた人々や、罪を犯した人々、さらには動物にいたるまで分け隔てなく手を差し伸べました。忍性は、般若寺の近辺にハンセン病患者のための療養施設「北山十八間戸」を建立しました。また自らが患者を背負い、町へ連れて行ったとも語り継がれています。
般若寺の復興に尽力し、社会的弱者への救済に生涯を捧げた忍性(1217–1303年)の遺骨は、額安寺(奈良)、竹林寺(奈良)、極楽寺(神奈川)に分骨し納められました。その一部を般若寺にも分与され、この塔に納められています。
忍性は文殊菩薩を深く信仰していました。「文殊経」によれば、文殊菩薩は貧しい人や病に苦しむ人の姿となって現れ、人々を救うことでその信仰の深さを試すと説かれています。忍性は16歳のとき、亡き母の遺志を継いで出家しました。その後、西大寺再建のための勧進活動を行う高僧・叡尊(1201–1290年)と出会い、その弟子となります。叡尊と忍性は、全国の寺院で文殊菩薩の教えを説き、各地に文殊像を安置しました。そして、仏の慈悲はすべての命に平等に注がれるという信念のもと、社会から疎外されていた人々や、罪を犯した人々、さらには動物にいたるまで分け隔てなく手を差し伸べました。忍性は、般若寺の近辺にハンセン病患者のための療養施設「北山十八間戸」を建立しました。また自らが患者を背負い、町へ連れて行ったとも語り継がれています。 -
八字文殊菩薩騎獅像重要文化財
般若寺の本尊。完成された智慧(般若)をもつ智慧第一の菩薩様。 初期の大乗経典、とくに般若経典でさかんに活躍し、完成された智慧(般若)をそなえて説法をされた菩薩です。大乗経典でも諸菩薩を主導し、空に立脚するその智慧が文殊菩薩の特性であります。 本像は、頭髪を八髻(はっけい)に結び、右手に剣を握り、左手に経巻を載せた蓮華を執り、宝相華唐草文様の透彫りを施した光背を背負い、獅子の背上に坐った、いわゆる八字文殊菩薩像です。
元亨4年(1324年)に高僧・文観房弘真(もんかんぼうこうしん・1278-1357年)が発願し、大仏師の康俊(こうしゅん)・康成(こうせい)、施主 藤原(伊賀)兼光(かねみつ)らによって造立されました。文観上人は後醍醐天皇の護持僧として南朝の復興に尽力した人物で、のちに醍醐寺座主兼天王寺別当や東寺長者を歴任されています。 文殊菩薩の胴体内には、後醍醐天皇の御願成就とみられる墨書が残され、すなわち、討幕祈願(幕府滅亡)の意味が込められた尊像であることがわかります。尊像の造立意義は当時の政権闘争を知る上でも貴重な存在です。もと経蔵の秘仏本尊でありましたが、延徳2年(1490年)旧本尊の周丈六文殊菩薩像が焼失してのち、寛文7年(1667年)に現本堂の再建により経蔵から移され御開扉されました。
般若寺の本尊。完成された智慧(般若)をもつ智慧第一の菩薩様。 初期の大乗経典、とくに般若経典でさかんに活躍し、完成された智慧(般若)をそなえて説法をされた菩薩です。大乗経典でも諸菩薩を主導し、空に立脚するその智慧が文殊菩薩の特性であります。 本像は、頭髪を八髻(はっけい)に結び、右手に剣を握り、左手に経巻を載せた蓮華を執り、宝相華唐草文様の透彫りを施した光背を背負い、獅子の背上に坐った、いわゆる八字文殊菩薩像です。
元亨4年(1324年)に高僧・文観房弘真(もんかんぼうこうしん・1278-1357年)が発願し、大仏師の康俊(こうしゅん)・康成(こうせい)、施主 藤原(伊賀)兼光(かねみつ)らによって造立されました。文観上人は後醍醐天皇の護持僧として南朝の復興に尽力した人物で、のちに醍醐寺座主兼天王寺別当や東寺長者を歴任されています。 文殊菩薩の胴体内には、後醍醐天皇の御願成就とみられる墨書が残され、すなわち、討幕祈願(幕府滅亡)の意味が込められた尊像であることがわかります。尊像の造立意義は当時の政権闘争を知る上でも貴重な存在です。もと経蔵の秘仏本尊でありましたが、延徳2年(1490年)旧本尊の周丈六文殊菩薩像が焼失してのち、寛文7年(1667年)に現本堂の再建により経蔵から移され御開扉されました。 -
白鳳仏(阿弥陀如来像)重要文化財
この金銅製阿弥陀如来像は、昭和39年(1964年)、般若寺十三重石塔の修理解体工事の際、石塔五層目の内部から発見されました。 像高は40.9センチ。当初は鍍金が施されていたと考えられ、現在も所々に金色が残っています。頭部が大きく、体躯が比較的小さい造形は、白鳳時代(645‒710年)の仏像に見られる特徴です。
若々しく愛らしい表情には穏やかな微笑みが浮かび、両手を前に差し出す姿は、浄土へと衆生を迎え入れることを示す「来迎印」を結んでいます。やや大きく表された両手は、人々を救う阿弥陀如来の深い慈悲の力を象徴しているとも考えられます。 来迎印を結ぶ阿弥陀如来像としては最古の例とされ、聖武天皇(701-756年)の曾祖母にあたる持統天皇の念持仏であった可能性も指摘されています。
さらに、この像の胎内からは、掌に収まるほどの大日如来像・十一面観音像・地蔵菩薩像の三尊が納められていることが確認されました。
この金銅製阿弥陀如来像は、昭和39年(1964年)、般若寺十三重石塔の修理解体工事の際、石塔五層目の内部から発見されました。 像高は40.9センチ。当初は鍍金が施されていたと考えられ、現在も所々に金色が残っています。頭部が大きく、体躯が比較的小さい造形は、白鳳時代(645‒710年)の仏像に見られる特徴です。
若々しく愛らしい表情には穏やかな微笑みが浮かび、両手を前に差し出す姿は、浄土へと衆生を迎え入れることを示す「来迎印」を結んでいます。やや大きく表された両手は、人々を救う阿弥陀如来の深い慈悲の力を象徴しているとも考えられます。 来迎印を結ぶ阿弥陀如来像としては最古の例とされ、聖武天皇(701-756年)の曾祖母にあたる持統天皇の念持仏であった可能性も指摘されています。
さらに、この像の胎内からは、掌に収まるほどの大日如来像・十一面観音像・地蔵菩薩像の三尊が納められていることが確認されました。 -
三十三観音
この観音菩薩像は、元禄16年(1703年)山城国北稲八間(現在の京都府精華町)の寺島氏が、般若寺で足の病の平癒を祈願し、その御礼として寄進された石像です。 関西六府県を巡る西国三十三所観音霊場の観音像をそれぞれ模して造られました。 これらの観音像に参拝することで、さまざまな事情により巡礼ができない人々も、西国巡礼と同じ功徳を得られるとされています。
江戸時代(1603‒1867年)巡礼信仰は庶民の間に広まり、本像の造立もそうした時代背景の中で行われ、当時、衰退期にあった般若寺の再興や参詣者の増加の一助となったと考えられています。
この観音菩薩像は、元禄16年(1703年)山城国北稲八間(現在の京都府精華町)の寺島氏が、般若寺で足の病の平癒を祈願し、その御礼として寄進された石像です。 関西六府県を巡る西国三十三所観音霊場の観音像をそれぞれ模して造られました。 これらの観音像に参拝することで、さまざまな事情により巡礼ができない人々も、西国巡礼と同じ功徳を得られるとされています。
江戸時代(1603‒1867年)巡礼信仰は庶民の間に広まり、本像の造立もそうした時代背景の中で行われ、当時、衰退期にあった般若寺の再興や参詣者の増加の一助となったと考えられています。
基本情報
般若寺
-
拝観時間
9:00〜17:00(受付は16:30まで)
※1〜4月、7月、8月、12月は閉門16:00(受付は15:30まで) -
拝観料
大人500円
※アジサイ・コスモス開花時期は700円 - 詳しくは公式ホームページでご確認ください。



