
毎年8月15日、戦没者や災害などで亡くなった人々の慰霊のために行われる奈良の大文字送り火。その大の字の火床がある高円山の麓にあるのが白毫寺です。境内から西側を見渡すと、奈良市街を一望できます。この地には、天智天皇の第七皇子、志貴皇子の山荘があったと伝わりますが、さもありなんと思わせられます。鎌倉時代に叡尊が再興した寺院のひとつでもありますが、叡尊の弟子の道照が宋から大宋一切経の擦本を持ち帰り、この寺で一切経転読を行ったため、一切経寺とも呼ばれるようになりました。今も毎年4月8日に一切経法要が花まつりとともに行われます。奈良では「東大寺のお水取りが終わると春が来る」とよく言われますが、白毫寺の一切経法要にちなみ、「寒さの果ても彼岸まで、まだあるわいな一切経」とも謳われてきました。
白毫寺は高円山の麓にあり、奈良市街を一望できる眺めが印象的です。万葉歌人でもあった志貴皇子の山荘があった場所をお寺にしたと伝わります。平安時代(794-1185年)から江戸時代(1603-1867年)にかけて作られた多くの仏像も守ってきました。白毫寺という寺名は、お釈迦様の額にあったとされる螺髪の一つ「白毫」からつけられました。白毫寺の草創は鎌倉時代初期あるいはそれ以前と考えられ、鎌倉時代の僧・叡尊(1201-1290年)が再興しました。15世紀には戦乱によりほぼ全焼してしまいましたが、貴重な仏像のいくつかは火災から逃れることができました。白毫寺は戦乱や廃仏毀釈などを乗り越え、再建を重ね、昭和58年(1983年)には、貴重な仏像を収める宝蔵が完成します。

秋には、境内に続く石段を紅紫の萩の花が彩り、春には、一本の幹から紅・白・桃色に咲きわける五色椿が咲き誇ります。この五色椿は奈良県天然記念物で奈良三名椿(ならさんめいちん)のひとつに数えられています。

みどころ
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阿弥陀如来像
本尊は宝蔵にある阿弥陀如来像です。阿弥陀如来は、その名を唱える全ての者を救済する仏として広く信仰されています。白毫寺の坐像は平安時代(794-1185年)から鎌倉時代(1185-1333年)の作とされ、檜の寄木造に漆箔を施したものです。光背は透かし彫りで、飛天を配しています。 頭部を覆う螺髪など、細部にいたるまで均整のとれた造形で、肉髻の珠と額の白毫はいずれも水晶製。半眼で伏し目がちで穏やかなまなざしです。衣文の彫りは浅く、この時代の作に多く見られる力強く写実的な作風とは異なり、より繊細でしなやかな印象を醸し出します。
本尊は宝蔵にある阿弥陀如来像です。阿弥陀如来は、その名を唱える全ての者を救済する仏として広く信仰されています。白毫寺の坐像は平安時代(794-1185年)から鎌倉時代(1185-1333年)の作とされ、檜の寄木造に漆箔を施したものです。光背は透かし彫りで、飛天を配しています。 頭部を覆う螺髪など、細部にいたるまで均整のとれた造形で、肉髻の珠と額の白毫はいずれも水晶製。半眼で伏し目がちで穏やかなまなざしです。衣文の彫りは浅く、この時代の作に多く見られる力強く写実的な作風とは異なり、より繊細でしなやかな印象を醸し出します。
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伝文殊菩薩像
この像は、両手首から先は後補のもので、元の尊名は不明ですが、智慧の菩薩である文殊を表しているとされてきました。額の白毫は水晶。右手は悪を払い除ける印相を結び、左手には蓮の花を持ちます。わずかに伏せたまなざしと穏やかな表情が印象的です。肩や手首から膝にかけて繊細に垂れ下がる天衣の表現は、熟練の仏師による彫刻技術の高さをうかがわせます。
広い額と胸部、均整の取れた構図、豊かな量感の体部は、平安時代初期の仏像の特徴です。細部まで丁寧に施された表現から、当時の彫刻技術の洗練がうかがえ、平安美術の優れた作品のひとつです。
この像は、両手首から先は後補のもので、元の尊名は不明ですが、智慧の菩薩である文殊を表しているとされてきました。額の白毫は水晶。右手は悪を払い除ける印相を結び、左手には蓮の花を持ちます。わずかに伏せたまなざしと穏やかな表情が印象的です。肩や手首から膝にかけて繊細に垂れ下がる天衣の表現は、熟練の仏師による彫刻技術の高さをうかがわせます。
広い額と胸部、均整の取れた構図、豊かな量感の体部は、平安時代初期の仏像の特徴です。細部まで丁寧に施された表現から、当時の彫刻技術の洗練がうかがえ、平安美術の優れた作品のひとつです。 -
閻魔大像、司命像、司録像重要文化財
迫力ある閻魔王像は、白毫寺で最もよく知られた仏像です。
閻魔王とは、死者を裁く「十王」の一人で、死後7日ごとに行われる裁判のうち5番目の審判を担当し、生涯の詳細な記録と、これまでの4度の審判の判決を確認し、死者が六道のどこに転生するかを決める役割を担います。善く生きた者は人間道へ行き、輪廻から抜け出すための好機が与えられるといわれ、大変恐れられる存在です。
この像では、閻魔王は怒りにゆがんだ表情に、水晶の眼が鋭く光り、死後に待ち受ける裁きを参拝者に警告しているかのようです。両脇には、死者の行いを読み上げる司録、罪を記録する司命の像があります。三体はいずれも寄木造で、もとは鮮やかな彩色が施されていました。
迫力ある閻魔王像は、白毫寺で最もよく知られた仏像です。
閻魔王とは、死者を裁く「十王」の一人で、死後7日ごとに行われる裁判のうち5番目の審判を担当し、生涯の詳細な記録と、これまでの4度の審判の判決を確認し、死者が六道のどこに転生するかを決める役割を担います。善く生きた者は人間道へ行き、輪廻から抜け出すための好機が与えられるといわれ、大変恐れられる存在です。
この像では、閻魔王は怒りにゆがんだ表情に、水晶の眼が鋭く光り、死後に待ち受ける裁きを参拝者に警告しているかのようです。両脇には、死者の行いを読み上げる司録、罪を記録する司命の像があります。三体はいずれも寄木造で、もとは鮮やかな彩色が施されていました。 -
地蔵菩薩像重要文化財
地蔵菩薩は日本で最も親しまれている仏で、旅人や子どもを守るとされ、路傍などでもよく見かけます。地獄の十王の法廷においては、地蔵菩薩が死者のために、生前の善行を熱心に証言し、すでに地獄に落ちた者に対しても、刑期を短くして苦しみから救い出してくれるとされます。
白毫寺の地蔵菩薩は檜の寄木造。光背や台座も当初のものがそのまま伝わっています。右手には錫杖、左手には宝珠を持っています。眼と白毫は水晶でできていて、彩色や截金もかなり残っています。衣文の整った表現など、鎌倉時代後期の仏像の秀作です。
地蔵菩薩は日本で最も親しまれている仏で、旅人や子どもを守るとされ、路傍などでもよく見かけます。地獄の十王の法廷においては、地蔵菩薩が死者のために、生前の善行を熱心に証言し、すでに地獄に落ちた者に対しても、刑期を短くして苦しみから救い出してくれるとされます。
白毫寺の地蔵菩薩は檜の寄木造。光背や台座も当初のものがそのまま伝わっています。右手には錫杖、左手には宝珠を持っています。眼と白毫は水晶でできていて、彩色や截金もかなり残っています。衣文の整った表現など、鎌倉時代後期の仏像の秀作です。 -
興正菩薩像重要文化財
叡尊(1201–1290年)は鎌倉時代に活躍した僧侶で、生涯にわたり貧しい人々の救済や荒廃した寺院の再興に尽力しました。特に有名なのは、重い差別に苦しむハンセン病患者への慈善活動で、弟子たちとともに手厚く世話をしました。没後「興正菩薩」の尊号が贈られました。
この像は、西大寺に伝わる叡尊の晩年の姿を表した寿像を模して作られたものです。頭はわずかに尖り、眉は垂れ、玉眼です。元々の彩色は現在ではほとんど失われていますが、叡尊の風貌を見事に捉えています。
叡尊(1201–1290年)は鎌倉時代に活躍した僧侶で、生涯にわたり貧しい人々の救済や荒廃した寺院の再興に尽力しました。特に有名なのは、重い差別に苦しむハンセン病患者への慈善活動で、弟子たちとともに手厚く世話をしました。没後「興正菩薩」の尊号が贈られました。
この像は、西大寺に伝わる叡尊の晩年の姿を表した寿像を模して作られたものです。頭はわずかに尖り、眉は垂れ、玉眼です。元々の彩色は現在ではほとんど失われていますが、叡尊の風貌を見事に捉えています。 -
木造太山王像重要文化財
太山王は地獄の十王の一人です。死者が受ける最後の第七の審判を司ります。仏教では、死者は死後49日間、中陰(現世と来世の間)にあると考えられており、生前の行いや残された人々の供養や祈りによって死後の罰や行き先が決まるといいます。太山王は、亡者が次にどの世界に生まれ変わるかを決定する存在です。
この像は、白毫寺宝蔵に安置されている閻魔王像と一対であると考えられています。太山王像の胎内の墨書銘によれば、慶派の仏師・康円(1207–?)が、1259年に造ったことがわかります。1497年、戦火によって寺院が焼失した際にこの像も大きく損傷しましたが、翌年には速やかに修復されました。
簡略化されつつも写実的で、康円独自の作風をよく示しています。檜の寄木造で、玉眼や、高度な彩色が施されていたことがうかがえます。
太山王は地獄の十王の一人です。死者が受ける最後の第七の審判を司ります。仏教では、死者は死後49日間、中陰(現世と来世の間)にあると考えられており、生前の行いや残された人々の供養や祈りによって死後の罰や行き先が決まるといいます。太山王は、亡者が次にどの世界に生まれ変わるかを決定する存在です。
この像は、白毫寺宝蔵に安置されている閻魔王像と一対であると考えられています。太山王像の胎内の墨書銘によれば、慶派の仏師・康円(1207–?)が、1259年に造ったことがわかります。1497年、戦火によって寺院が焼失した際にこの像も大きく損傷しましたが、翌年には速やかに修復されました。
簡略化されつつも写実的で、康円独自の作風をよく示しています。檜の寄木造で、玉眼や、高度な彩色が施されていたことがうかがえます。 -
観音菩薩像、勢至菩薩像
阿弥陀:室町時代(1392–1573年)観音・勢至:江戸時代(1603–1867年)
これは「阿弥陀来迎三尊像」の一例で、仏教美術で広く見られる形式です。三尊像は、阿弥陀仏が観音・勢至の両菩薩を従えて、亡者を極楽浄土へ迎えに来る(来迎)場面を表しています。阿弥陀は西方極楽浄土を司る救済の仏で、その左右に、慈悲を象徴する観音菩薩と、智慧と力を象徴する勢至菩薩が並びます。 阿弥陀像は室町時代ごろの作とみられ、詳しい経歴は不明ながら、長く本堂の一隅に安置されていました。宝蔵が建てられた1983年以降、現在の形となりました。両脇侍は江戸時代頃の作とされ、かつて本尊阿弥陀如来坐像が本堂におられた頃はその脇侍でありました。
阿弥陀は蓮華座に座し、若々しく穏やかな表情を浮かべています。勢至菩薩は合掌し、観音菩薩は亡者を極楽へ運ぶための蓮台を手にしています。二菩薩はいずれも膝をつき、やや前傾しながら今まさに立ち上がろうとしており、観音菩薩はすでに片足を地につけています。こうした動きの表現は、浄土へと人々を導く菩薩の姿を象徴的に示しています。
阿弥陀:室町時代(1392–1573年)観音・勢至:江戸時代(1603–1867年)
これは「阿弥陀来迎三尊像」の一例で、仏教美術で広く見られる形式です。三尊像は、阿弥陀仏が観音・勢至の両菩薩を従えて、亡者を極楽浄土へ迎えに来る(来迎)場面を表しています。阿弥陀は西方極楽浄土を司る救済の仏で、その左右に、慈悲を象徴する観音菩薩と、智慧と力を象徴する勢至菩薩が並びます。 阿弥陀像は室町時代ごろの作とみられ、詳しい経歴は不明ながら、長く本堂の一隅に安置されていました。宝蔵が建てられた1983年以降、現在の形となりました。両脇侍は江戸時代頃の作とされ、かつて本尊阿弥陀如来坐像が本堂におられた頃はその脇侍でありました。
阿弥陀は蓮華座に座し、若々しく穏やかな表情を浮かべています。勢至菩薩は合掌し、観音菩薩は亡者を極楽へ運ぶための蓮台を手にしています。二菩薩はいずれも膝をつき、やや前傾しながら今まさに立ち上がろうとしており、観音菩薩はすでに片足を地につけています。こうした動きの表現は、浄土へと人々を導く菩薩の姿を象徴的に示しています。
基本情報
白毫寺
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拝観時間
9:00~17:00
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拝観料
大人500円
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詳しくは0742-26-3392(白毫寺)までご確認ください。



